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博士課程の意義:「足の裏の米粒?」なのか?

博士課程

博士課程で研究をすすめる中で、直面するモヤモヤがあります。

博士課程の意義とは?ということについて、考える機会が非常に多いので、そのモヤモヤも含めてここに書きたいと思います。

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意義① 学術では、研究の「運転免許」

博士課程とは、「足の裏の米粒のようなもの」と、よく言われます。

「取らないと気持ち悪いが、とっても食えない」という意味らしいです。
(個人的には、比喩にイメージが沸かず、表現がイマイチしっくりこないのですがw)

このように考えてしまうと、博士課程の意味合いというものが、なんだか非常に残念な印象になってしまいます。

本当にそうなのか、そうなのだろうか、と博士課程に興味を持った人なら誰しも、一度は考えたことでしょう。

私自身も、悩み、考えていたとき(というか今もまだその途上。。)、日本でお世話になっている某大学の教授から、一縷の望みを頂いたような気がしました。

「博士課程とは、研究者として国際的に活躍する上では、パスポートまたは車の運転免許のようなもの」

私は、この言葉に、はっとさせられたことを今も覚えています。

先生曰く、

研究者として活躍するためには、学部や修士までの経験とは全く異なる、博士課程での修行は絶対に必要。

博士号は、いわば、研究の作法をしっかりとマスターし、学術的な議論ができる人間であることを、国際的に証明するライセンスである。

こう考えてみると、博士課程が「足の裏の米粒」という表現が、どうも本当に的を射たものなのかどうなのか、わからなくなってきます。

果たして、博士課程とは、「足の裏の米粒」なのか、はたまた、「研究者としての国際的なライセンス」なのか?

この見方によって、博士課程の価値は全く異なってくるでしょうし、挑戦する価値も変わってくるでしょう。

前者のように考えれば、取らなくても気持ち悪いだけなので、必要はないものになります。

一方、後者のように考えれば、「運転免許」のようなものなので、研究を営む者としては、必要不可欠なものとなってきます。

この見方の違いは、はたして、どのような見地の違いから現れるものなのしょうか。
また、みなさんは、どのように考えますか?

意義② 「科学的」知識を生み出すこと

先生からこのような言葉を頂き、少し励みになりつつも、未だにまだ自分自身は答えが出ずにいます。

それは、博士課程在籍が経過した今も変わりません。

そんなある日、ミラノの大学での講義のある日のことです。

「PhD(博士)は、(科学的な)知識を生み出す」

これは、非常にシンプルな宣言ですが、意味合いが深いです。

究極、西欧社会を中心に発展してきた科学という営みは、知識を生み出す活動でありました。

知識とは、いろんなレイヤーで語られます。しかし、ここでは「科学的」な意味合いが含まれます。

科学的とは、諸説ありますが、平たくいえば、世の中一般に通用する普遍性のあることといえるでしょう。

当然、自然科学や社会科学、人文科学など、様々な「科学」が存在しますので、その意味するところは、各学問領域において、深く参照されなければなりません。が、科学(Science)の営みとは、究極的には、知識を生み出すことなのです。

そして、この営みをなしうることは、博士過程を経ることなくしてはできない、ということが、
いわば国際標準である、ということです。

イタリア人の先生は、ここでもこの「国際標準」に対して、一言物申したいことがたくさん(ひとことではないw)ようです。(すなわち、ここでの標準とは、アングロサクソン系の標準であって、英語に支配された世の中での標準である、という意識が、イタリア人の教授の間では少なからずあります。

ただし、そうした上で、その標準の中で戦わざるを得ないことを承知し、少しでも研究成果を上げるべく、戦略的に国や大学をあげて、イタリアでは研究を続けていることを、先生方は強調されます)

こんな話を聞いていくと、博士課程を歩むこと、科学的知識への使命感が産まれてきます。

それは、ある一個人や一企業、一団体の利益を超えた、人類全体の進歩への貢献の意識です。

博士を志すもの、また、博士として先端で研究にあたっている先生方には、このような意識があることを、イタリアに来て感じています。

そこには、「足の裏の米粒」というような意識はありません。(これを説明することのほうが難しいです。)

博士課程の意味合いについて、より前向きに、意義のあるものとして捉え、歩んでいきたいものです。

Ciao Grazie!

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