トップジャーナルに応募すること。
これは、いわば、「アカデミック・オリンピック」だ。そう思った。
世界中からその分野に関する知のプロフェッショナルな研究者たちが、科学的な人類の英知を一歩前進させるため、ジャーナルに応募する。
このモチベーションは、とてもピュアだ。
研究の第一線で挑戦し続ける教授の言葉からは、純粋な意気込みと楽しさが伝わってくる。まるで、アスリートだ。勝っても負けても、誠心誠意戦い抜くその様は、オリンピックを目指す超一流のアスリートそのもののように見えた。
目次
一本の論文に応募して、メールが返ってくる。その意味。
一本の論文に応募して、メールの返事が返ってくる。ここで「reject」されることも少なくない(というか、かなりの部分はここで落ちる)。
「Revise」のメールがきたときは、2つの意味がある。
そう語る教授の目は輝いていた。
その日の午前中は終わる。
メールといっても、これはもはやレポートに近い。3人のレビュアーからコメントがぎっちりと入ってくる。しかも詳細だ。これを読み、理解するだけでも半日はかかる。
心して読むことが大切。
学びの絶好の機会だ。
そして、2つ目の意味は、学びの絶好の機会だということ。
レビュアーは、本当に本当に本当に本当に、その領域で最も優れた研究者である。彼ら彼女らからのコメントの一つ一つは、学びがぎっしりとつまったものである。
これをしっかりと読み込んで、論文を練り上げていく。
一本のメールには、それくらいの意味がある。
学術ジャーナルでの発表は、研究者の真骨頂か。
このメールを見せてもらったときには、思わず心臓が高鳴るようだった。
こんなにびっちりと丁寧に書かれたメールは見たことがない。
そして、話をしてくれた大学教授自身、まぎれもなく第一線で活躍されている研究者だ。その人が、目を輝かせている。そんな子どものような姿は初めてみた。
学術研究というものは、これまでの歴史の中で先人たちが積み上げてきた巨大な知識のネットワークに対して、敬意を払い、成果を整理し、その上で、意義のある問いを投げ、メソッドに基づいて答えを導き出す。その貢献(新しい知識)というものは、非常に小さなかけらだ。
この新しい知識が、非常に小さなかけらである、という表現は、このコミュニティにいるみなが等しく使う表現である。
先人に対する尊敬と畏怖の念が込められている。
学者はみなとても謙虚だ。自分の知識の貢献が、まるで0.001秒でも人類の最新記録を更新できればよいと考えているかのように。
そのためにたくさんの文献を読み、研究法に磨きをかけ、書き方を洗練させ、仕上げていく。
研究者は、アスリートのようでもあり、職人のようでもある。
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